[比較文化学科]比較文化学科で出来ること(その2)*教員(研究)紹介・小林 勝 教授・滝澤 修身 教授

[比較文化学科]比較文化学科で出来ること(その2)*教員(研究)紹介・小林 勝 教授・滝澤 修身 教授

比較文化学科「独自の」特徴(メリット)として、最初から狭い意味での専門が決まってしまうわけではなく、ア・ラ・カルト式にいろいろ興味のある授業を受けてみて自分の本当にやりたいことや取りたい資格を決めていくことが出来る、ということが挙げられます。

それで、「比較文化学科で出来ること」を知る為には、教員の研究の守備範囲を知ることから始めるのが一番分かりやすいので、以下に紹介します。各教員はそれを基盤に、関連する授業やゼミ(←3,4年生の時には、一人の教員について卒業論文を作成する)をもっているからです。


小林 勝 教授(社会人類学)

インドでヒンドゥー教のお寺について調査しています。

私は、南インドのケーララ州というところで、フィールドワークをおこなってきました。1498年あの有名なヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰周りで到着したカリカットは、このケーララ州の北部に位置しています。特にヒンドゥー教のお寺を中心とした地域社会のあり方について研究しています。地域社会の中心に位置するお寺に祀られていたのは、たいてい地母神のような女神カーリーです。

 

19世紀から20世紀の初頭までは、有力な大地主の一族がお寺を所有していて、それ以外の人たちは、それぞれカーストの身分に応じて、お寺に対する権利と義務をもっていました。大地主で寺の所有者だったのは、ナンブーディリ・ブラーフマンというこの地方の祭司階層、いわゆるバラモン(婆羅門)や、そしてナーヤルという戦士階層のなかの有力者たちです。ナーヤルの家柄には、王族や大領主クラスからナーヤル専用の床屋さんにいたるまで、ピンからキリまで実に多様なものがありました。

 

彼らほど大きな土地を所有していなかった平民的なナーヤルの多くは彼らの家臣として仕え、お寺にも様々な奉仕をしなければなりませんでした。漁師職のカーストであるヴァランは、寺の境内には入ることができましたが、社殿に立ち入ることは許されませんでした。小作人や椰子酒汲みをしていたイーラワーという低カーストは、境内にさえ立ち入ることができず、さらに身分の低い農奴であったプラヤという不可触民は、寺院に近づくことさえ許されませんでした。

 

そんな差別を受けていた低い身分の人たちも、しかし、お祭りとなれば、それぞれに役割を与えられ、女神を慰撫するのに欠かせない存在でありました。寺社の飾り付けを用意したり、独特の踊りで祭りを盛り上げたり、シャーマン的な能力を発揮したり、あるいは祭りにはどうしても必要だった泥酔をもたらす椰子酒を提供したり。ということで、ヒンドゥー教のお寺は、カーストの身分の違いを確認し強調する場でもあり、同時に地域社会全体の一体感を演出するための装置でもあったと言えます。

 

そんな寺院を中心としたケーララの地域社会は、20世紀の半ばに近づくにつれて、大きな変化にみまわれます。まず、すべてのお寺はすべてのカーストに開放されるようになりました。また、多くのカーストが大きな互助組織のようなものをつくって州のレベルで団結するようになり、それぞれの地域社会のなかに、カーストそれぞれの寺院を作るようになりました。そうやって特に低カーストたちは、大地主や高カーストからの寺院を通した支配から抜けだそうとしているのだと考えられます。

 

そうしたわけで、実は今現在も、ケーララの寺院はどんどん増え続けています。私が特に興味深く感じているのは、こうしたヒンドゥー寺院の増殖が、もともと教会をモデルにしているらしいということです。ヴァスコ・ダ・ガマの到来以来、カトリック教会がこの地に広がりましたし、その後はプロテスタント教会も活発な布教活動に努めてきました。それだけでなく、このケーララ地方には、もっと古くからネストリウス派のキリスト教徒たち(シリアン・クリスチャン)が在住していたことも知られています。こうしたミッションや在地のキリスト教徒たちは、19世紀以降近代化を主導する役割を果たしました。各宗派の教会には、互いに競い合うように、近代的な学校や集会所、印刷所や新聞社、銀行などが併設されていきました。

 

ヒンドゥー教の各カーストも、こうしたキリスト教徒たちに見習い、まず自分たちの寺院を持つと同時に、経済的に可能であれば学校などの施設を持ちたいと望むようになりましたでも、なかなか教会のようには上手くいきません。今でもキリスト教徒たちは、特に教育の分野で圧倒的な優位を保っています。ですから多くのヒンドゥー教徒の子どもたちが、地域の教会学校に通っています。州政府は小中学校を自前で整備することが十分にできないので、教会学校の教師の給料分を公費から支出して、地域の子どもたちの公教育をそこに任せてしまっているのです。

 

私は、20数年間にわたって100以上のヒンドゥー寺院をまわり、その由来を尋ね、また祭礼を観察してきました。そうすることで、それぞれの地域社会の変化がどんなふうに進んできたのかが、とても具体的に見えるようになったと思っています。明治維新以来の日本の近代化とはずいぶん違う道筋を歩んではいますが、けして日本よりも遅れていると言うべきではありません。日本のように悲惨な敗戦や原発事故といった余りにも大きな失敗をケーララは犯していませんし、地域社会の自治や民主主義という点では、日本はケーララに明らかに負けています。近代化というのにも、いろいろな形があり得るのだと考えた方がいいと思います。

 

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滝澤 修身 教授(キリシタン史)

「キリシタン研究の醍醐味」                    

私は、スペインに12年半滞在し、日本にやってきたキリスト教宣教師の研究を行っていました。皆さんは、中学校の社会科、高校の日本の授業のなかで、「1549年フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教会が伝えられた。」ということは学習したと思います。しかし、キリスト教が実際どのように宣教師たちによって日本人に広められ、日本人にどうように認識され、禁教に至っていったのかという詳しい事柄は学習していないのではないでしょうか。

 

日本に伝えられたキリスト教は、1583年までには大規模に拡大し、この年には15万人に日本人キリスト教徒が増え、日本全国には200の教会が存在したと言われています。しかし、このキリスト教拡大の勢いに脅威を感じた豊臣秀吉は1587年に「伴天連追放令」つまり、日本からキリスト教宣教師を追放してしまいます。さらに、1614年に徳川家康は日本全国にキリスト教禁止令を出しました。こうしてキリスト教は、厳しく迫害されていきます。

 

キリスト教が禁止されると、当然、日本にあった彼らの書物や書簡なども焼かれてしまいます。このような理由で、日本にはキリシタンに関する史料は多くは存在しないのです。しかし、日本にやってきたキリスト教宣教師たちは、ザビエルが到来して以来、多くの日本に関する情報をヨーロッパに書き送っていますザビエルが属していた修道会であるイエズス会は、ポルトガル、スペイン、イタリアの修道士が多かったため、今でもこれらの国々には16・17世紀の日本のキリスト教布教に関する莫大な史料が保管されているのです。

 

また、イエズス会は、日本で活動する宣教師に日本のキリスト教会の様子を毎年、ローマのイエズス会総長宛てに提出させていました。これらの報告書を『日本年報』と言います。この『日本年報』には日本の何という町で、何という宣教師が、どのようにキリスト教を日本人に伝道し、何人の日本人がキリシタンになったのか等の情報が克明に記されています。これらの情報をもとに現在の日本でのキリシタン研究は展開されているのです。

 

また、日本にやってきた宣教師達は日本語で宣教を行っていました。彼らは、日々日本語を勉強し、研究していきました。こうして、数多くの日本語に関する辞書や文法書が編纂されていきました。日本語の通訳をしていたイエズス会のジョアン・ロドリゲスという宣教師がいますが、彼は『日本語文典』、『日本語小文典』など著しました。また、長崎では1603年から1604年にかけ『日葡辞書』が編纂されました。これらの書物を通じ、当時、日本人がどのような日本語を話していたのかなども知ることができます。

 

ザビエルたちの日本宣教には一つの大きな特徴があります。彼らイエズス会宣教師は、日本の布教では「日本文化を尊重し、日本文化になじむこと」を心がけていました。この布教方針を研究用語では「適応主義」と言います。イエズス会宣教師のなかには、着物を着てキリスト教を広めた者もいました。また織田信長、豊臣秀吉の時代には大いに茶道が流行しましたが、イエズス会宣教師たちは日本の茶道を彼らの宣教に取り入れました。当時、日本に建てられた教会の一室には「茶室」が設けられていたことが知られています。また、宣教師たちは、日本風の食生活を行いました。ヨーロッパ人の習慣である肉食を止めて、米・採食を行いました。日本人の家にお呼ばれした時に、刺身を食べると喜ばれるので、本当は嫌いなのに刺身をたくさん食べた宣教師もいたと記録に残っています。

 

私の研究の一つに16・17世紀に日本にやってきたキリスト教宣教師が日本をどう見ていたのかというものがあります。―皆さんどう思いますか?―日本人を初めて知ったザビエルは次のように言っています。「第一に、私達が交際することによって知りえた限りでは、この国の人々は今まで発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒の間には見いだすことができないでしょう。彼らは、親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。彼らは、驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何より名誉を重んじます。」

 

ザビエルの後続で、1670年に天草にやって来たオルガンティーノというイタリア人宣教師は、「日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼等は喜んで理性に従うので、我等一同よりはるかに勝っている。我等の主なる神が何を人類に伝え給うたかを見たいと思う者は、日本へ来させえすればよい。彼等と交際する方法を知っている者は、彼等を己の欲するように動かすことができる。」ザビエルを始め多くのヨーロッパ人宣教師は、日本人、日本文化を大変賞賛していたようです。

 

一方、初めてヨーロッパ人宣教師を目にした日本人は、どのようなことを考えていたのでしょうか?「宣教師が歩いた後は草木が枯れる」「宣教師と付き合うと悪運に見まわれる」「宣教師は赤ん坊を食べる」とか色々な噂をたてていました。このように違う民族が出会うと、様々な他者評価が生まれるようです。

 

現在、日本のキリシタン研究は、宗教、経済、文化、言語、科学、民衆史など様々な分野で展開されています。キリシタン研究の中に、人間のすべての活動を見出すことができると言ってもよいほどです。みなさんが興味を持てば、どんな角度からも日本のキリシタン研究は行うことができます。多くの若者が、日本のキリシタンの史料収集で世界各地を飛び回っています。大変面白い研究分野です。皆さんも私と一緒に、日本のキリシタン史を研究してみませんか?


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比較文化学科でできること(その1)