[比較文化学科]比較文化学科で出来ること(その6)*教員(研究)紹介・宮坂 正英 教授(日欧文化交渉史、社会学)、石井 望 准教授(漢文圏文芸)

[比較文化学科]比較文化学科で出来ること(その6)*教員(研究)紹介・宮坂 正英 教授(日欧文化交渉史、社会学)、石井 望 准教授(漢文圏文芸)

「比較文化学科で出来ること」とは・・・
比較文化学科「独自の」特徴(メリット)として、最初から狭い意味での専門が決まってしまうわけではなく、ア・ラ・カルト式にいろいろ興味のある授業を受けてみて、自分の本当にやりたいことや取りたい資格を決めていくことが出来る、ということが挙げられます。
それで、「比較文化学科で出来ること」を知る為には、教員の研究の守備範囲を知ることから始めるのが一番分かりやすいので、以下に紹介します。各教員はそれを基盤に、関連する授業やゼミ(←3,4年生の時には、一人の教員について卒業論文を作成する)をもっているからです。

宮坂 正英 教授(日欧文化交渉史、社会学)

シーボルトとの出会い

 今年はシーボルトがミュンヘンで亡くなって150周年を迎える。ドイツやオランダ、日本でも多彩な行事が行われる。自分自身にとっても今年はシーボルト研究の節目を迎える。

国立歴史民俗学博物館が主催する共同研究プロジェクトの中で10年あまり続けてきた研究成果を特別企画展「甦れ!シーボルト日本博物館」で発表することになったためだ。シーボルトが江戸時代末期に日本で収集した数万点にも及ぶ日本の生活文化関係資料がオランダのライデンやドイツのミュンヘンの博物館に保管されている。しかしシーボルトが何のためにこのような膨大な資料を集め、どのようにヨーロッパで日本を紹介しようとしたのか長い間謎であった。その問題を今回の研究プロジェクトである程度解明することができたと確信している。

 このように自分にとってライフワークとなったシーボルト研究は、ほとんど偶然始まったといってもよい。今回は筆者とシーボルトの出会いについてお話してみたい。

 今から33年前の1983年、ドイツでの留学先であるヴュルツブルクの下宿先に一本の電話がかかってきた。今は亡き郷土史家ヴェルナー・デッテルバッハ氏からだった。シーボルトの末裔コンスタンティン・フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン氏と昼食を共にするので一緒に来ないかというお誘いの電話だった。

 ブランデンシュタイン氏は二人の著名な人物の末裔である。一人は日本研究家フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトであり、もう一人は硬式飛行船の発明で有名なツェッペリン伯爵である。フォン・ブランデンシュタイン氏はちょうど家督を相続するためにブランデンシュタイン城に移り住んだばかりだった。シーボルトの次女マチルデの嫁ぎ先であるお城を相続するにあたって、兄ツェッペリン伯爵と兄がツェッペリン、自分がシーボルトの顕彰を分担して行うことを決めていた。そのため兄の住むお城から大量のシーボルトに纏わる資料が運び込まれていたのだ。

ブランデンシュタイン城

 昼食の際、初対面にもかかわらず一度お城に来てシーボルト資料を見てみないかという望外なお誘いでシーボルトに初めて接することができた。ヘッセン州のシュルヒテルンという田舎町からさらに5kmほど山奥に入ったところにある古城の一室にシーボルト資料は無造作に積み上げられていた。絵画や器物、文書類が大量にありまだ日本やシーボルトについてほとんど知識を持たない氏の依頼は、資料の中から貴重であると思われるものを選別することであった。筆者自身も日本人でありながら、シーボルトに関する知識はほとんどなく、ブランデンシュタイン氏に実情を説明し、時間的な猶予をいただいてある程度の知識をつけてから整理にあたることになった。

 こうしてブランデンシュタイン城通いは始まった。ドイツや日本から取り寄せた文献など約20冊ほどのシーボルトの文献を読みながら疑問に思ったことは、件数にして7,000件を超える文書資料が末裔の家にほとんど未使用で残されているにもかかわらず、シーボルトの人物研究はやり尽くされているといわれていることであった。

その一番の理由は、戦前に日本の近代精神医学の基礎を築いた東京帝国大学教授、呉秀三が生涯をかけて刊行した『シーボルト先生其生涯及功業』と戦後ドイツ人史家ハンス・ケルナーが著した評伝『ヴュルツブルクのシーボルト家』の存在であった。呉の評伝は500ページに及ぶ大著で日本に残るシーボルト関係の主要な史料を網羅し、シーボルト研究の根幹を作り上げた名著であり、また、ケルナーの評伝は唯一ブランデンシュタイン家に伝わる文書を活用して著された評伝であったためだ。しかし呉はドイツに残された史料はほとんど活用しておらず、またケルナーもこのブランデンシュタイン家文書のすべてに目を通して評伝を描いたわけではなかった。にも拘わらず、シーボルト研究はすでにほぼ完結したかのような印象があった。

 この文書群を世に出して新たな切り口でシーボルト研究をおこなうことができるのではないか、その方法はないかを試行錯誤を続けながら一人で簡単な資料の概要調査と整理を続ける日々が1年ほど続いた。

 転機は平成元年に訪れた。長崎市がシーボルトの業績を顕彰するためにシーボルトが西洋人として日本で初めて私塾を開設した鳴滝にシーボルト記念館を開設したことで、シーボルトに対する関心が高まった。新設された博物館にはシーボルトの娘楠本イネの末裔や多くの門人、阿蘭陀通詞の末裔から貴重な遺品や資料が寄贈されたが、ドイツ側に残る資料の調査や収集はまだ行われていなかった。

 長崎市教育委員の専門家が訪独して調査をおこなった際、一つの提案をおこなった。ブランデンシュタイン家文書のマイクロフィルム化であった。古城に収蔵されている資料であるため、落雷や漏電による火災で焼失してしまう可能性も残されていた。そこで古城外のどこか適切な場所で資料のコピーを保管することを提案した。

 こうして、長年ドイツの古城で眠っていた大量のシーボルト関係の重要な資料がマイクロフィルムで日本に運ばれ、多くの研究者が活用できるようになった。

 原資料の分析をもとにした新たなシーボルト研究はまだスタート地点に立ったに過ぎないと考えている。国立歴史民俗博物館の企画した展覧会は来年2月から長崎歴史文化博物館でも展示されることが決まっている。この機会を活用して筆者のもとで長崎文化を学ぶ学生諸君と共同作業を行い、シーボルトの魅力を伝えていきたいと考えている。


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石井 望 准教授(漢文圏文芸)

AKB48文明論

 今をときめくAKB48。海外にも姉妹グループが産まれつつあります。最近のニュースによれば、秋元康氏の海外増設構想は、上海のSNH48、タイワンのTPE48、マニラのMNL48、バンコクのBNK48、ジャカルタのJKT48、とひろがる見込みだと言ひます。この地理的分布の特徴、皆さんお分かりでせうか。

 古代の稻作文化圏、民俗學の所謂海上の道、中世晩期からの海のシルクロード、ポルトガル人の進出地、近世の朱印船貿易圏、そして江戸時代長崎貿易には遠く印度人も來てゐたさうです。

 秋元氏の構想はこの歴史に重なります。そこにはチャイナ本土(北部)が含まれません。長崎唐館にもチャイナ本土の人は來てゐませんでした。偶然ではありません。世界五大文明の歴史を考へれば分かります。

 メソポタミアで始まった古代文明は、西に流れてエジプト、ギリシア文明となり、東に流れてインダス、黄河文明となりました。稻作文化圏の北側には黄河文明のチャイナが有り、南の長江流域は次第にチャイナの殖民地となりました。チャイナ本土(北方黄河流域)の歴史は大きく三段階に分けることができます。

一、黄河文明時代。漢字創成から前漢まで。(西暦紀元前)
二、印度文明圏時代。後漢から唐末まで。(同紀元十世紀まで)
三、中華思想時代。北宋から現代まで。(同紀元十世紀以後)

第一時代のチャイナ人は西アジアの大文明の存在をほとんど知りませんでした。チャイナ東側と南側の稻作文化圏にはまだチャイナ文明が大きく浸潤せず、漢字もほとんど使用されませんでした。

 第二時代には西の大文明が陸のシルクロードを通じてチャイナに流入し、チャイナは大印度文明圏の一部分となりました。東南アジアから日本までの稻作文化も、大印度文明圏の南部と重なります。

 第三時代には中華思想が陸のシルクロードの西方文明を拒絶し、一方でイスラム乃至ヨーロッパ文明は、海のシルクロードを通じて流入し、チャイナ文明との戰(たたか)ひが東南沿岸で繰りひろげられます。

 時空を俯瞰すれば、第三時代では中華思想が大印度文明圏から離脱を圖(はか)り、アジア諸國がそれを取り圍(かこ)む形を形成してゐます。第二時代だけはチャイナ本土(北部)が排除されてゐません。なぜなら陸のシルクロードの時代であり、チャイナは大印度文明圏内の一部分だったからです。

 日本が取り入れた漢文圏文化は、基本的に長江以南のチャイナ殖民地文化です。第二時代までは北のチャイナ本土の文化も併せて取り入れてゐましたが、第三時代では日宋貿易、茶、禪宗(ぜんしゅう)、長崎唐人など、ほとんど例外無く長江以南の文化です。肉饅頭や饂飩(うどん)など非米食はもともと北方文化ですが、長江以南の流儀に進化してから日本に流入しました。

 AKB48グループの進出地は、第一時代の稻作文化圏であり、第二時代の大印度文明圏の東南部であり、第三時代のチャイナ包圍網(?)の海側です。秋元氏はそれを意識してゐないかも知れませんが、いつの間にかさうなったわけです。自由で開放的な空氣、文化的共通性、親日と目される若者たち、貿易の興隆など、全てが古來の文化圏からうけつがれた結果であり、AKB48を受けいれる土壤となり、秋元氏の眼は必然的にそちらに向いたのです。

 麻生元首相及び安倍首相はかつて「自由と繁榮の弧」構想を公表しました。日本から東南アジア、インド洋、アラビア、地中海へとつながる外交構想です。秋元構想と同じく、稻作文化圏から西洋に伸びる海のシルクロードの歴史に重なります。チャイナ本土を含まないのは偶然ではありません。

 以上は文明圏について私個人の見方です。皆さんならどんな見方をしますか。是非石井ゼミで東アジア漢字文化の中から何か一つ題材を選び、卒業研究に取り組んでみませんか。 (平成28年4月18日)


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