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学園の歴史

長崎原爆と純心女子学園

1.戦争の時代

動員学徒の腕章
動員学徒の腕章
 学園創立からほどなく日本は不幸な戦争の時代に進み、1941年太平洋戦争が始まりました。戦局が厳しくなると学生・生徒までが「学徒動員」として兵器工場で働くことになりました。戦争の末期、1944年になると高等女学校の2年生以上、つまり13~14歳の少女たちまでが学業を離れて毎日工場で働いていました。動員された生徒たちは、学校ごとに軍隊のように部隊の形をとり学徒隊を作りました。純心高等女学校の場合はこれを「純女学徒隊」と呼びました。

2.原爆投下の日

長崎の原爆雲
長崎の原爆雲
 学徒動員の生徒たちは夏休みを返上して工場で働く日々が続いていました。午前と午後に分けて交替で工場に出勤していました。1945年8月9日の朝のことでした。校長のシスター江角ヤスがシスターたちに次のように申しました。
 「6日に広島に新型の爆弾が落とされ、大変な被害を受けたということです。しかも、今日は長崎が危ないという噂があります。余程の用事がないかぎり、工場の引率の当番がない人は、三ツ山町の開墾地に出掛けて下さい」。三ツ山町は長崎市北部にある帆場岳(ほばたけ)の緩斜面地域で、当時、純心はそこに疎開地を兼ねたささやかな開墾地を持っていました。午前組の動員生徒を工場に送り出したあと10名余のシスターたちが、大八車を引いて三ツ山町の開墾地に出掛けました。三ツ山町は爆心地から約3キロ離れた地にあり、学校は1キロ200メートル余の地にありました。その日、シスター江角ヤス校長と4人のシスターが学校に残りました。
原爆二日前の純心
原爆二日前の純心
原爆三日後の純心
原爆三日後の純心
 11時2分、ものすごい閃光と爆裂音とともに長崎の空が暗闇に閉ざされました。三ツ山の松の茂みの中で作業をしているシスターたちは何事が起こったのか皆目見当がつかないまま、地面に伏せました。暫くすると薄明りが戻ってきましたが、やがて浦上の町の空から煙と灰が三ツ山の開墾地の上空に押し寄せて来ました。爆風に乗って飛んできた燃え残った二、三枚の紙きれが松の小枝に引っ掛かりました。拾ってみますと、聖書と学徒動員に出ている純心の生徒の名簿の燃え残りの紙片だったのです。
 「純心が燃えている!」と知ったシスターたちは直ちに学校に戻り始めました。炎の海と化した浦上から全身焼け爛れた人々が水を求めながら山地の方に逃げて来ます。その逆方向に向かってシスターたちは走りました。やっと学校に辿りついたとき、倒れた校舎に既に火の手が回っていました。シスター江角校長はコンクリートの壁の下に挟まれて重傷を負い、救い出されて防空壕に横たわっていましたが、駆け戻ったシスターたちに、直ぐに工場で被爆した学徒動員の生徒たちを探しに行くようにと命令しました。浦上川の流域には水を求めてきた人達が、累々と折り重なるようにして死んでいました。その一人ひとりを抱き起こし純心の生徒を探しました。既に生き絶えていれば、校庭に連れ帰って茶毘に付し、傷ついた生徒たちを救護所に送る不眠不休の救護活動が続きました。  江角校長をはじめ傷ついたシスターたちは三ツ山の開墾地にあった小さな仮小屋に移って、第11医療隊三ツ山救護所を開設した永井隆博士の治療を受けていました。
 その仮小屋に横たわるシスター江角校長のもとに、救護所で亡くなっていく生徒たちの様子や、傷もなく無事でよかったと喜んで家に帰った筈の生徒たちが、髪の毛が抜け、歯茎から血を出して次々に亡くなっていく様子が毎日のように報告されました。とうとう214名の「純女学徒隊」の生徒たちが原爆によって生命を奪われてしまいました。

3.「純女学徒隊」の願いと祈りによる学園の再建

 シスター江角校長は考えました。「愛する教え子たちを 214名も死なせてしまった。 どうして再び教壇に立つことが出来よう。余生を教え子たちの冥福を祈って過ごそう」そう決心し、学校を閉じる準備を始めたのです。このことを聞き知った亡くなった生徒たちの父兄が、相次いで三ツ山の仮小屋を訪れて来て申しました。「わが子を亡くしたのは、大きな悲しみですが、あの悲惨な状況にありながら、聖母賛歌を歌い、祈りつつ清らかな最期を遂げてくれたのは、何よりの慰めでした。これは純心教育のお陰です。子どもが、あれほど愛し、最期まで心配していた学校を閉鎖しないで下さい」と訴えたのです。
純女学徒隊殉難者の校墓
純女学徒隊殉難者の校墓
 このことがシスター江角校長に勇気を甦らせました。「あの子たちが純心が続くことを望んでいたのであれば、どんな苦労があっても学校を復興しよう」と、焦土と化した原子野から、純心女子学園の再建を決心したのです。「純心がよくなれば、亡き純女学徒隊の生徒たちが喜んでくれる、よい純心教育を行って平和を愛する生徒を育てよう」。原爆後の学園の復興はこの思いに支えられてきました。
 1948年に漸く校墓を建立し、台座の中央に永井隆博士が「純女学徒隊」を偲んだ歌 「燔祭のほのほの中に うたいつつ 白ゆり乙女 燃えにけるかも」を刻み、毎年の慰霊祭で在校生が斉唱しています。

4.「恵の丘」と原爆養護老人ホーム

 シスター江角の心の中には自分は原爆で亡くなったあの子たちの供養のために生き残らせて頂いたので、「純女学徒隊」の生徒が生きていたならば行ったであろうことを自分が代わってしなければならない、という思いが何時もありました。そのことをシスターは「私は原爆のあとかたづけのために生き残らせて頂きました」と表現していました。
 「恵の丘」にある原爆ホームの開設は、原爆で亡くなったあの子たちに代わって、原爆孤老の方々のお世話をしたいという気持ちから始まったものです。

5.世界平和を祈り続ける生徒たち

 シスター江角は純心に学ぶ生徒・学生たちに「純女学徒隊」の願いと祈りの心をを引き継いで行くように懇々と「純女学徒隊」のことを語り続けました。1950年勃発した朝鮮動乱は、平和の喜びをやっとかみしめ始めていた多く人々に強い危機感を与えました。これは純心学園の生徒の意識にも鋭い影響を与えました。一人の生徒が「世界平和のために祈ろう」と提案し、毎朝8時から「世界平和のためのロザリオの祈り」が生徒たちの手で実行されるようになりました。そしてこの祈りは61年後の現在も継続して実行されています。 シスター江角これを喜び、病に倒れるまで毎朝生徒たちと共に「世界平和のためのロザリオの祈り」を祈り続けました。1980年 9月、国連の軍縮問題研修員(フェローシップ)が長崎を訪れ純心を訪問したとき、この「世界平和のためのロザリオの祈り」を知って、非常な感銘を受け、国連から「平和の楯」が贈呈されました。
 被爆66年を経た今もなお学園では、「純女学徒隊」の祈りに支えられた学園の教育が継続されているのです。
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