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学園の歴史

戦後の再建の時代

1.大村時代と純心女子専門学校の開設

 こうして原爆被爆の廃墟のなかから第二の創立期とも言うべき戦後の再建の時代が始まりました。学校再開の決意はしたものの原子野と化した長崎には教室に仕える建物も部屋もありません。そこに大村市植松町にあった旧第21海軍航空廠女子工員宿舎を借り受ける交渉が成立し10月10日移転することが決定したのです。長崎市を出ることが出来ない生徒たちは市内の学校に転校手続きを取りました。大村も戦火の跡が生々しく荒れ果てた工員宿舎の環境を整備して11月授業を再開しました。被爆時には 700名余在籍していた生徒が 170名余に減っての再出発となりましたが、教師も生徒たちも久し振りの教室でした。 平和の時代の到来をこれほど感じさせるものはなかったと語り継がれています。
 この大村時代に学園創立以来の念願であった純心女子専門学校(神学科・被服科)の設置が1947年 3月31日付けで認可されました。特に神学科の開設は女性にカトリック神学や哲学を学ぶ機会をつくろうという当時としては画期的な構想でした。

2.新制中学校と新制高等学校の発足

 戦後の学制改革が進み、1947年 3月学校教育法が制定公布され、同年新制中学校、1948年には新制高等学校が発足、旧制高等女学校が廃止されましたので1949年純心女子専門学校の学生募集を停止しました。一方、学園では原爆で焼失した家野町キャンパスの復興の努力を続けていました。原爆後の11月には生き残った園児を集めて焼け跡の青空園舎で純心幼稚園を再開していました。1948年には大村の旧海軍施設の校舎一棟を家野町キャンパスに移し、純心分校として新制中学校と新制高等学校を開設しています。
 丁度その頃、純心に払い下げが約束されていた旧第21海軍航空廠女子工員宿舎と土地が政府の都合で返還を要請されたのです。学園はこれを機に家野町の旧狡地に復帰することを決定、1949年 4月、幼稚園だけを当分の間残すことにして純心学園本校が家野町キャンパスに本格的に移転復帰しました。1961年には大村純心幼稚園を閉じて、戦後16年間の 大村時代が終わりました。

3.純心女子短期大学の開設と新しい出発

 1950年は学園の歩みの中でも画期的な年となりました。新学制による短期大学制度の施行に合わせ旧純心女子専門学校を母体として逸早く純心女子短期大学(社会科・保育科)の設置申請を行い、全国に開設された 129校の短大のうち西日本における唯一のカトリック短大として開学したのです。「社会科」は戦後の新しい教科目でした。設置認可申請にあわせて中学社会科教諭の養成を目的に教職課程も申請しました。特に長崎という独特の歴史と文化を持つ地域社会を基盤にしたカリキュラムは独創的で「長崎学」研究として、現在まで引き継がれています。家野町の学園敷地は、中学・高校も生徒数が増え手狭になって来ました。短大の将来の発展のためには独立したキャンパスが必要でした。1975年、短大創立25年を記念して三ツ山キャンパスに移転、教育研究のさらなる充実を図ることになりました。

4.長崎純心大学の開設と大学院の設置

 社会科、保育科の2学科で発足した短大も、その後45年の年月の間に時代の要請に応えて英米文化科、社会福祉科の学科を増設しましが、1994年に学園は新たな挑戦に取り組みました。それは短大から四年制大学への改組転換の道の選択です。時代の変化と地域の要請に応える必要と、何よりも創立者の「建学の精神」に沿うための決断でありました。
 1994年に長崎純心大学 人文学部 比較文化学科、現代福祉学科を開設して以来、2003年までに短大を改組しながら人間心理学科、英語情報学科、児童保育学科を順次開設し、1学部5学科の基本構想が完成、2006年 3月には短期大学部の廃止を完了しました。
 その間、時代の動向と学園の教育事業としての将来を勘案し、四年制大学開設の当初計画を大学院の開設を前提に立案していましたので、学部第1期生が卒業を迎えた1998年大学院人間文化研究科人間文化専攻修士課程を開設、さらに修士課程第一期生修了に合わせて2000年に同博士後期課程を開設しました。ここに1学部5学科、1研究科1専攻の大学の教育組織が整ったのです。
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