2025年、被爆から80年の節目を迎えるにあたり、私たちは純心の原点に改めて立ち返ります。
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、当時の純心女子学園では学徒動員中の生徒たちが犠牲となりました。初代学園長・江角ヤスは、「自らの教育の結果として生徒を死なせてしまった」と深く苦悩し、学校教育を閉じる決意を固めます。
しかし、保護者より「娘の最期は立派でした。純心の教育をどうか絶やさないでください。」と懇願されました。
この言葉が、江角ヤスの心を支え、純心教育の火は消されることなく今日まで大切に受け継がれてきました。そして、被爆により親を亡くした子どもたち、あるいは被爆した生徒の代わりに親を看取るという使命のもとに設立されたのが「恵の丘長崎原爆ホーム」です。
今、平和の語り部が少なくなる中、長崎純心大学での学びを通して平和の精神を受け継ぎ、それを現場で形にしている卒業生たちの姿があります。
純心の教育は、80年前の悲しみの中から生まれました。しかしその根底には、命を想い、人を想い、平和を願う強い祈りがあります。
この思いを、これからも途切れることなく、未来へとつないでいきます
純心女子短期大学で介護を学び
社会福祉法人 純心聖母会で働く卒業生へのインタビュー
有馬博美さん
(1997年度卒業)
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社会福祉法人 純心聖母会 軽費老人ホームときわ荘 施設長 |
利用者さんとの関わり
入職当時原爆ホーム別館で勤務していました。利用者さんの中で原爆投下により、家族やすべてを奪われ、人生そのものが変わってしわまれた方がいらっしゃいました。その方は、心身ともに不安定となられ、幻視や幻聴に悩まされ常に不安な状態でした。悲しそうに泣かれる姿を目の当たりにして、介護者としてどのように対応したらいいのだろう、どう声かけしたらいいのだろうと悩みながらその方が1人ではないと思っていただけるよう、できるだけその方の傍にいることにしました。少しでも笑顔が見られたときは本当に嬉しかったです。この方は亡くなられ、身内もいなかったのでホームでお葬式をし、恵の丘の納骨堂に納められました。
介護のやりがい
被爆者の方と接する中で、戦争がなかったら違った人生があったのではないかと想像したとき、自分に何ができるかと考えると、無力さを感じることがありました。また安心して暮らしていただきたいと思いながら支援を行っていますが、あとで振り返ると、あの時こうすればよかったのではないかと悔いが残ることもあります。日々のケアの中で、考えても答えのないものを問い続け、答えがないだけに難しいこともありますが、それがやりがいにもつながっています。
介護のやりがいは、お金やものに変えられない、人と人のつながり肌と肌のぬくもり、お互いの喜びを分かち合えることだと思います。この介護の魅力に多くの人に気づいて欲しいと願っています。
恩師を偲ぶ
恩師である中島一成先生がお亡くなりになられたことがきっかけで、最近、短大時代の友人と連絡をとり、先生を偲びました。中島先生は穏やかで誠実で、誰一人見捨てない方でした。先生のおかげで卒業できた学生はたくさんいました。一人前の大人として扱ってくれたこと、人として大事にしてくれたことが心に残っています。純心教育の中にはそのような先生方のあたたかいまなざしがあるのだと思います。
被爆80年を迎え、これから…
被爆80年を迎え、ときわ荘では毎日、カトリック信者の方もそうでない方も祈りをささげています。これからも、平和への祈りと謙虚さを胸に人々に寄り添いたいと思います。
担当教員:横山、井上、小玉