企画展示 長崎と原爆 - 平和を願う 想いをつなぐ

【展示期間】 2024年7月10日(水)~8月24日(土)

長崎に原子爆弾が投下された1945年8月9日から、79年目となる夏を迎えます。

今回の展示では、被爆した器物や被爆者自身による作品、さらにそれらの記憶と記録から現今の作家が制作した作品を中心に、約60点の資料を展示しています。

たった一発の原子爆弾が長崎の町や人々にどのような被害を与え、またその事が当時から現在までどのように語り継がれてきたのかを知ると共に、先人たちが訴え続けてきた平和を願うメッセージを後世にどう語り継いでいくべきか、ともに考えてみませんか。

純心と原爆

本学・純心女子学園もまた、原爆による大きな傷と悲しみを背負った場所のひとつです。

現在の純心女子高等学校・純心中学校がある場所に建っていた「純心高等女学校」では、214名の生徒と教職員が原爆により命を奪われました。その大部分が、動員学徒「純女学徒隊」の一員として兵器工場で働いていた13歳から16歳までの女子生徒たちでした。

原爆投下を学園の歴史の重要な一部分ととらえ、こうした生徒たちの遺品や写真、校舎が受けた被害の状況が分かる写真等も、併せて展示しています。

主な展示資料

  • 原爆瓦(爆心地から200m以内で採集されたもの)
  • 爆風で欠け落ちた浦上天主堂の天使像頭部
  • 「純女学徒隊」生徒の遺品(手紙など)
  • 戦時中の生活を写した写真
  • 小﨑侃 版画「合掌」シリーズ(松尾あつゆき『原爆句抄』より)

千羽鶴を作りませんか?

博物館内キリシタン文庫に折り紙を準備しています。
平和を祈り、純女学徒隊を偲んで、鶴を折ってみませんか?
博物館の開館中、どなたでもご自由にご参加いただけます。

企画展示 キリスト教の伝来と発展

【展示期間】 2024年5月13日(月)~7月5日(金)

フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の日本伝道が始まったのは1549(天文18)年。以降も多くの宣教師が南蛮船に乗って日本を訪れ、キリストの福音の種を蒔きました。

1563(永禄6)年、大村藩主・大村純忠(洗礼名ドン・バルトロメオ)が受洗したことを皮切りに、各地でキリシタン大名が誕生。これに伴って信徒は日本中に増え、教会が建ち、「キリシタン時代」と呼ばれる一時代が築かれました。

長崎とキリスト教

1580(天正8)年、長崎は大村純忠よりイエズス会に寄進され、教会領となります。町中に教会が建ち並び、鐘の音に満ちた長崎の町は、“小ローマ”とも呼ばれました。

また、キリシタンたちのリーダーとなる日本人の司祭を養成するべく、セミナリヨ・コレジヨといった教育機関が作られて多くの日本人キリシタンが勉学に励みました。

天正遣欧少年使節のローマ訪問

「天正遣欧少年使節」は、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が計画した使節団です。ヨーロッパの人々に日本と日本布教の成果について紹介し、同時に日本人学生たちにローマで見聞を広めさせようと計画されたものでした。

使節団は1582(天正10)年に長崎を出発。マカオ・ゴア・リスボンなどを経て1585(天正13)年ローマに到着すると当時の教皇グレゴリオ13世に謁見しました。日本からの使節の訪問は、当時ヨーロッパ中で大きな話題となりました。

企画展示 武文桜監修 群像人形「竹取物語」展

【展示期間】 2024年2月13日(火)~4月12日(金)

創作日本人形「竹取物語」の12場面約80体の人形を展示しています。
展示している人形は、2014年、長崎歴史文化博物館において開催された「武文桜回顧展 竹取物語」展の後、創作日本人形紫桜会より本学へご寄贈いただいたものです。
人形だけでなく、その衣装・小物・背景に至るまで、丁寧に作り込まれた物語の世界をご堪能下さい。

「竹取物語」の世界

日本最古の物語文学とされる「竹取物語」。正確な成立年は不明ですが、10世紀から11世紀頃の作品と推測されています。
子どものいない老夫婦が光る竹の中から女の子を見つけて育てると、その子はみるみるうちに美しい女性へと成長し、5人の貴公子の求婚を無理難題ではねのけ、帝の詔命にも応じず、やがて月へと帰ってしまう……
およそ1000年以上もの時を経た現代においても、子供から大人までを魅了するこの物語は、日本を代表する作品といえるでしょう。

武文桜氏と紫桜会

武文桜(本名・文子)氏は、1926年長崎市生まれ。福岡県にて結婚・子育ての傍ら日本人形の制作を学び、やがて独自の人形創作を始められます。1963年、創作日本人形紫桜会を横浜で設立。<群像人形「竹取物語」>は、紫桜会のメンバー50名あまりと共に1982年に制作されました。
武文桜氏の活動は自身の人形制作だけにとどまらず、「青い目の人形」交流を通した諸外国との国際親善交流や人形修復、講演活動にも尽力されました。
晩年においては2003年の「長崎瓊子」里帰り展への協力や、瓊子の妹人形「鶴子」の制作・寄贈、2007年二度目の「長崎瓊子」里帰り時の着付け直しなど、故郷長崎での活動にも積極的に取り組まれ、2011年逝去されました。